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即自というのは、他人などの外界を受け入れることのできない、いうなれば赤ん坊のような状態だということはここで何度かご説明させていただいたと思うけれど、今日はその、「受け入れること」と「許容すること(良しとして認めること)」は全く違うものだということを書いてみたいと思う。
人にはそれぞれ、色々な価値観がある。それは例えば、生まれた持った条件や、生まれ育った環境によっても変わってくるだろうし、出会いや経験によっても大きく変わってくる。僕にとっての何かを受け入れるという行為は、外界である「他人」の多様な価値観や思想を、在るべき存在として受け入れるということに他ならない。なぜなら、多様性や流動性というものは自然界(宇宙)がもつ本来の本質的な要素であって、人間自体もそれらの一部分であるのだから、それを受け入れずにいられるわけはないというのが、今の僕の根本的な考え方だ。
人は誰でも、世の中で生きていれば、自分と同じ考えを持つ人と出会うこともあれば、自分とは全く違った考え方を持つ人と衝突することもある。ただ、人間という生き物は、他の生物・動物とは違い、ある種高度な社会性に基づいて生活する生き物だから、相手の存在や考え方を尊重し受け入れながら、それら価値観や概念などの差異や相違を上手に刷り合わせて、妥協点というか、中庸な解決策を模索して、前進していくべきものだと思う。
それこそが僕にとっての「受け入れる」ということの基本的な姿勢であって、善悪の分別や極端な排除を元にしない、(自然界の内の)人間社会に必要とされる「調和」ということなのだと解釈している。
しかし、世の中に存在する全てが宇宙や自然界の要素だからといって、その全てを受け入れる必要があるのかといえば、僕はそれは全く違うと思う。
例え、対象の存在や意義を受け入れることが必要でも、受け入れたものが、人間社会というある種人工的な枠組みの中に波紋や混乱を呼び起こすものだとするならば、それは、絶対に許容するべきでものではない。人間は、悲しいかな、(是非や必要性は置いておくとして)一定のルール、例えば法律とか、憲法とか、そういったものに基づいて行動しなければいけない場面も多く、それが人間社会の中で生かされ生きていくことの難しさなのだと思う。だから、それらを大きく乱すような行為や思想などは、決して許されるものではないと思うのだ。
例えば、リチャード・コシミズさんが自身の体験に基づき訴え続けてきた、○価というカルト組織が実行する「保険金殺人」。
その、悪意的・意図的な行為によって命を奪われた人たちの死は、果たして「自然の流れ」なのだろうか?
もちろん広い視野で物事を大きく捉えれば、それは「自然」なのだと思う。
ただ、前述したように、人間という生き物はある一定の社会性に基づき生命活動を行う要素の強い集団。その枠の中で、その「死」という事実を捉えるならば、それは決して自然なことではない。
まだ生きられた人が、誰かの手で、誰かの利益のために、命を奪われた。
僕はそう解釈する。
そして、それを僕は決して許容することはしない。
(もちろんそうはいいながらも、そういった考え方に対する定義づけは非常に難しいもので、むしろ無駄で不毛なものだということも分かった上で書いている)
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ここに、一つの白いボールがあったとする。
多くの一般大衆(テレビ真理教信者)は、そのボールが白いかどうかには興味がない。むしろ、そのボールが存在していることすら知らないのが大衆である。
そして、ユダヤ外国金融資本に完全に支配された大手既存マスメディアは、その白いボールの存在を、大衆に知られてはまずい場合は一切報道しない。必要性があれば報道するが、必ずしも「白い」と報道するということはできない。「赤い」というかもしれないし、黒い」というかもしれない。
そして、残念ながら大衆といわれる集団は往々にして「考える力」を持たないから、本当は白いものでも「赤」といわれれば「赤」だと思い、「黒」だといわれれば「黒」と思い込まされてしまう。なぜならそれはきっと、多くの人ははじめからボールの存在に興味がなく、ボールが何色だろうが自分には一切関係がないという日常をベースにしているからだろうと思う。
ただ、もうこんなことは昔の感情的な僕が何度も書きなぐってきたことで、今の自分にはそれは当たり前のこと。「大衆」という名を付けた集団をなにかと分別化・差別化するつもりはない。
今日ここで書きたいことは、「なぜメディアはそういう報道・行為」をするのかということ。
答えは簡単。そうすることで自分たち(権力集団)の利益になるから。たったそれだけのこと。彼らは、その、たったそれだけのことのために、他者を貶めることなど平気でする。ときには戦争を捏造して、何千何万もの人々を間接的に殺害さえする。
もちろんそれは自然の中に存在する一要素であるのだろうし、必要悪なのかもしれない。だから、僕はそれを受け入れる。
ただし、それを許容し、許すことだけは、絶対にない。
僕にとってなにかを受け入れることと、それを許容することは全くもって別次元のことなのだ。
自分のために、他人を貶める行為。
白であるものを、「赤」や「黒」として拡散する行為。
それを許容できるか?
できるわけないだろう。
そんなことは、人間のクズの行為。偽ユダヤの連中がやっていることと寸分たりとも変わらない。それをどうして許容できるだろうか。
もちろん人にはそれぞれ違った考え方や価値観がある。だから、白いボールの存在そのものに、なにか異議があれば、それを唱えることは必要だと思う。否定することも構わない。ただ、その存在を意図的に、私欲のために捻じ曲げた形で伝達することは、絶対に許される行為ではないと僕は思う。
人間は社会性を持った動物で、一定のルールに基づいた「社会」という枠組みの中で生活している生き物。
全ての存在には意味があって、それを受け入れる必要性はある。
だが、許容はしない。許さない。
「違っていることは、『違っている!』と、はっきりと主張する勇気」
さだまさし氏はそんなことを言っていたけれど、今日僕が言いたいことはその一言。
「受け入れること」と「許容すること」は全く違う。
それは、身近なできごとであろうと、ユダヤ国際金融資本が60億を10億に減らそうとしていることだろうと、同じ。
僕は、絶対に許さない。
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